ファレイヌ2 第20話「遠い日のエリナ」中編 7 再会 その日の正午、奈緒美のマンションで散々寝た美佳は、一人で自 宅のアパートに戻った。 「全くナオちゃんはいい方法を考えておくって言いながら、私が寝 てる間に仕事行っちゃうんだもんねぇ」 美佳は入口のドアの前で鍵を捜しながら、愚痴った。 「あれ、おかしいな」 美佳はウエストポーチの中の物を全て出したが、鍵は出てこなか った。 「あっ、そっか、エリナに預けたままだ。昨日はエリナと一緒に家 に帰るつもりだったんだもんね」 美佳はそれを思い出すと、胸が痛んだ。 「鍵開かないかなぁ」 美佳は一縷の望みを託して、ドアのノブを回してみた。 −−回った。 鍵はかかっていないようだった。 −−エリナが戻ってる? 美佳は急に嬉しくなって、ドアを開け、部屋に入った。 「エリナ、帰ってるの?」 美佳は玄関に靴を脱ぎ捨て、部屋の奥に入った。 「これは−−」 美佳は呆然と立ち止まった。 美佳を待っていたのは、めちゃくちゃに荒らされた室内であった 。 「誰がこんなことを……」 美佳は拳を固めた。 タンスの引き出しは全てひっくり返され、押入の中の物は全て床 に散らばっている。テレビや冷蔵庫も横倒しになり、電話線も切ら れている。そして、窓は開け放たれ、室内にそよ風が入ってきてい る。 「どうやら昨日は留守だったようね」 その時、ベランダの方から声がした。 美佳がはっとしてそちらの方を見ると、ベランダに通じる窓に一 人の女性が立っていた。 その女は白いカスケットをかぶった外国人であった。肌は白く、 髪は茶色で、目は青い。美佳から見てもモデルを思わせる顔立ちを していた。 「あなたは誰?あなたがこんなことをしたの?」 美佳は全く見覚えのないこの女性に鋭い視線を送った。 「バカね、私がやったんなら、現場であなたが帰ってくるのを待っ てやしないわよ」 「待ってた?」 「そうよ。部屋のドアが開いてたんでね」 女は微笑んだ。 「私に何の用?」 「そんなに恐い顔、しないでよ。一度は一緒に戦った仲でしょ」 「一緒にって私はあなたなんか知らないわ」 「友情はもろいわね。これを見ても思い出さない?」 女は右太股のホルスターから青銅色のリヴォルバーを抜いた。 「それは……」 「そう、青銅のファレイヌよ。そして、私の名はペトラルカ・ロー デス。思い出してもらえたかしら」 「ペトラルカ、生きてたの……」 「あなたがバフォメットを始末してくれたおかげで、人間になれた わ。礼が遅れたけど、どうもありがとう」 「礼なんていいよ、生きててくれただけで」 美佳は急に涙が出てきて、慌てて手で拭った。 「感激の対面なんてやってる場合じゃないわよ。エリナはいるの? 」 「エリナは今、ちょっと−−」 美佳は口を濁した。 「一緒に暮らしてるんじゃないの?」 「ちょっと出かけてるのよ」 「そう。だったら、すぐ捜した方がいいわね、手遅れにならないう ちに」 「手遅れってどういうこと?」 「この部屋を荒らした連中がエリナを拉致する可能性があるってこ とよ」 「連中って、この部屋を荒らした犯人が誰か知ってるの?」 「心当たりはあるわ。それより、早くエリナを捜しましょう。場所 は知ってるんでしょう」 「う、うん、わかった」 美佳は突然の出来事に戸惑いながらも、ペトラルカと一緒に部屋 を出た。 8 メダリオンホーク 同じ頃、エリナは小夜子の部屋にいた。水沢への抗議もあって、 昨日から部屋に閉じこもっているのである。本来なら、水沢の家を 抜け出すことはわけもないことだったが、美佳との約束もあり、ま た抜け出したところで問題は解決するものでもないので、不必要な 抵抗はしなかった。 エリナは暇つぶしに机の向かい、夜通し小夜子の日記やアルバム に目を通していた。 「何がきっかけでわたくしが小夜子さんになったのか……」 エリナはアルバムの写真にある中学生の自分の姿を見て、ぽつり と呟いた。 日記を見る限り、小夜子がかなり窮屈な人生を送っていたことは エリナにもわかった。幼稚園、小学校、中学校、高校と4度の受験 を経験している。特に第一志望に失敗した中学受験では父親にかな りの叱責とせっかんのようなものを受けて、かなりの恨み節が日記 には書き連ねてある。 この中学受験の失敗で、第二志望には受かったにも関わらず、小 夜子は学校以外でも毎日の塾通いと遅くまでの勉強を強いられるよ うになった。 クラブも入れず、自分の趣味にも没頭できない。ましてや、息抜 きも許されない。 彼女の人生が勉強一色であったことは、この殺風景な、何の生気 も感じられない部屋を見れば明らかだった。 女の子の部屋にありそうなインテリアやぬいぐるみは何もなく、 書棚には漫画や雑誌が一冊もない。スポーツ道具もなければ、テレ ビもラジオ、ラジカセもない。あるのは受験参考書ばかり。 これは個室ではなく、拷問部屋ではないかとエリナは思った。 小夜子の日記は高校の第一志望に合格した日から、ますます不安 定な記述になっている。それは大学受験だった。 『このまま行けば、自分は殺される』 小夜子の失踪直前にはこんなことが記されていた。 この小夜子の日記は机の後ろに隠してあった。埃が被っていて、 他人が読んだ気配はまるでなかった。普通、娘が失踪すれば、必死 に手がかりを捜すものだが、この家族はどうなっているのだろう。 ひょっとしたら、家族の者自身、この部屋に入るのが恐かったの かもしれない。この部屋には小夜子のすさんだ心が存在しているか らだ。 エリナは小夜子が失踪した気持ちが分かるような気がした。しか し、美佳の話では、小夜子は夜に誰かに呼び出されて以後、失踪し たという。 そうだとすると、小夜子を呼び出したのは誰か。 日記には男性のことは全く書かれていない。万が一にも日記を両 親に見られることを恐れたのだろうか。それとも本当にいないのか 。もしいるのなら、その人間が小夜子を呼び出した可能性もある。 エリナは自分が小夜子として目覚めた時のことを思い出してみた 。 −−確かわたくしは崖下の河原に倒れていたんですわ。服装は山 に行くような服装で、頭にはこぶが出来てましたね……あの時は人 間になったんで、嬉しくて、何とか山を抜け出して、真っ直ぐ美佳 さんのところへ行ったんですわ。まあ、その行程は大変だったんで すけど…… −−わたくしがあそこに倒れていたと言うことは、わたくしは崖 から落ちたんでしょうか。もしかすると、その時に小夜子さんの魂 が死んで、ちょうど転生しようとしていたわたくしの魂が小夜子さ んの体に収まった。どういう原理でそうなったのかはわかりません が、その可能性は強いですわね。そうなると、アパートに戻って、 もう一度、スポーツバックの中身、調べた方がいいかもしれません ね エリナはアルバムを閉じた。 コンコン−− その時、部屋のドアをノックする音がした。 「小夜子、私だ」 「どうぞ」 エリナは言った。 水沢が部屋に入ってきた。 水沢はエリナの監視もあって、仕事を休んでいるらしい。 エリナは水沢の顔を見ると、表情を堅くした。小夜子の日記を読 んだせいもあるが、美佳を誘拐犯呼ばわりしたのが許せなかった。 「小夜子、思い出したか?」 「わたくしは小夜子さんではありません。エリナですわ」 「まだそんなことを言っているのか。かわいそうに。この3年半、 あの人にそう言いきかせられてきたんだな。だが、心配するな。こ れからはずっと父さんたちと一緒だぞ。何があっても、父さんが守 ってやる」 「わたくしは守ってなんて欲しくありませんわ」 エリナはきっと水沢を睨んだ。 「おまえ−−」 「小夜子さんは誘拐されたんじゃありませんわ。自分で家を出たん です。あなたから逃れるために」 「小夜子!!」 水沢はエリナの言葉にカッとなって、エリナの頬を打った。 エリナが椅子から転げ落ちる。 「すまん、大丈夫か」 水沢はエリナの頬を打ったことを詫びて、エリナに歩み寄ろうと した。 「近寄らないで!」 エリナは頬を押さえながら、鋭い口調で言った。 「小夜子……」 「そうやって、学業成績が悪いと、小夜子さんをぶったんですね」 「おまえ、やっぱり気づいているんだな。わざと嘘の名前なんか言 って」 「違いますわ。小夜子さんの日記を読んだんです」 「小夜子の日記……?」 「そうですわ。その机の上にあります」 水沢は机の上にある小夜子の日記を手に取り、読んでみた。 『2月21日、第一志望の川倉学園に合格した。でも、家族は喜ば ない。まるで当たり前のことのようだ。食事の席で父は、「本番は これからだ。今度は東大受験だ」という。東大って……どうして今 から大学のことなんか考えなきゃいけないの。やっと受験から解放 されたのに、また受験勉強しなきゃいけないの。私は遊びたいのに 。明日から新しく受験勉強しなおさなきゃならない。今までの受験 勉強は全て無駄。もうバカらしくてやってらんない。あんなクソオ ヤジ、死んじまえばいいのに』 水沢は手を震わせながら、さらに他のページを読んだ。彼の顔は 次第に怒りで恐い形相になっていく。 「小夜子、おまえって奴は……」 水沢は日記を机に叩きつけ、エリナを睨み付けた。 「それが小夜子さんの本心ですわ。こんな憎悪に満ちた日記、見た ことありません」 エリナは立ち上がって、言った。 「小夜子!!」 水沢はエリナにつかみかかった。 エリナが抵抗するも、水沢は怒りに我を忘れ、エリナの首を絞め る。 「あ、あなたは娘を……殺すんですか」 エリナは絞り出すような声で言った。 しかし、今の水沢には聞こえていない。 −−もう駄目ですわ エリナは意識が遠のきかけた。 その時だった。 ガッという鈍い音がしたかと思うと、急に首への圧力が弱まった 。水沢はエリナの前で倒れてしまった。 「ゴホッ、ゴホッ」 エリナは激しくせき込んだ。 「やれやれ、恐ろしい男だな」 若い男の声がした。 エリナが顔を上げると、目の前には白い背広を着た3人の男がい た。いずれもサングラスをかけていたが、顔立ちからして日本人で はなかった。右側が黒人。左側が白人。両方とも大柄でがっちりと した体格をしていた。真ん中にいる男は身長は180センチ前後で 、スマートな体つき、腰まで伸ばした銀色の髪を持っていた。 「あなたたちは誰ですか?」 「サイティールを出せ」 銀髪の男が言った。 「サイティール?」 「黄金のファレイヌのことだ。おまえの持ち物だろう、エリナ」 「どうして、わたくしの名前を……」 「俺は質問されるのが嫌いなんだ。さっさと渡せ。出ないと、この 男のように死ぬぞ」 「死ぬって……」 エリナは倒れている水沢を見た。水沢の後頭部から血が広がって いる。もうぴくりとも動いていない。 「なぜ殺したんですの?」 「邪魔だからだ」 「邪魔……」 「さあ、サイティールを出せ。この男のようになりたくなかったら な」 銀髪の男が前に一歩出た。両脇の部下は拳銃を構えている。いつ でも発砲できる体勢だ。 −−どうすれば…… エリナはちらっと窓を見やった。 「ここにはありませんわ」 「では、どこにある?」 「それを言えば、わたくしを殺すのでしょう」 「殺すかどうかはわからぬが、言わなければ百パーセント殺す」 「わたくしを殺せば、ファレイヌの場所はわかりませんわ」 「確かにな。では、おまえから聞くことにしよう」 銀髪の男は前に進み出て、エリナの肩をつかんだ。 「な、何をするんですか」 「エリナ、俺の目を見ろ」 「え?」 エリナは銀髪の男の目を見た。 「あっ……」 男の銀色の目が光った。エリナは急に心を吸い取られたかのよう に意識が朦朧としてくる。 「おまえには、この俺の言葉しか聞こえない。そして、この俺には 逆らえない」 「……は…い…」 「ファレイヌはどこだ?」 「ファレイヌは……み…」 そこまで言った途端、エリナは口をつぐんだ。 「どうした、先を言え」 「あ……あ…」 エリナは心の中で必死に抵抗した。 「大した精神力だ。だが、ファレイヌの場所を言わねば、おまえの 心臓は止まることになるぞ」 男がそう言うと、エリナの心臓の鼓動が急激に弱まり始めた。 −−く、苦しい エリナは顔中、脂汗で一杯になった。 「さあ、おとなしく場所を……ん!」 銀髪の男はその時、窓に何かの気を感じ、そちらを見た。 ゴォォォォ!! 轟音と共に、突然、外から炎の弾が飛んできた。 「ルース、ケビン、伏せろ!!」 銀髪の男が叫んだ。 ガシャーン!! 窓ガラスが砕け、数発の火炎弾が二人の部下に命中した。ルース とケビンは火柱のように燃え上がり、一瞬にして丸焦げになって、 倒れた。 銀髪の男の催眠術から解放されたエリナはその場に倒れた。 「何者だ!」 銀髪の男は窓から顔を出した。 水沢邸前の路上には一人の女が立っていた。彼女の右手には銀白 色の銃が握られている。 「亜鉛のファレイヌ、ソフィー・ランバートよ。よろしくね」 女はウインクした。 「貴様もいたのか」 「仲間が殺されるのをおめおめ見ているわけにはいかないわ」 「ちょうどいい、おまえから先にフレミールを頂くとしよう」 銀髪の男は窓から地面に飛び降りた。 「悪いわね、私は戦うのが好きじゃないの」 「何!」 「相手は後ろよ、カイル」 ソフィーの言葉を後ろを向くと、いつのまにか美佳とペトラルカ が立っていた。 「ちっ、仲間が集まっていやがったのか」 銀髪の男、カイルは舌打ちした。 「よくも、ブリジッタとローゼを殺ってくれたわね。生かしては帰 さないわ」 ペトラルカは青銅銃の銃口をカイルに向けた。 「ふっ、おまえらにこの俺が殺せるものか」 「どういうこと。あんたに逃げ道はないわよ」 美佳も黄金銃をカイルに向けた。 まさにカイルは三つの銃口に包囲されていた。 「この俺は世界の支配者となるために生まれたのだ。俺を止めるこ とは誰にもできん」 カイルはニヤッと笑った。 「能書きはたくさんだわ。殺してやる」 ペトラルカが引き金に力を込めた。 「ホーク、メダリオンホーク!」 カイルが空に向かって叫んだ。 「え?」 美佳たちが虚空を見上げた。 上空から黒い何かが飛んでくる。 「何、あれは−−」 美佳が呟く。 黒い何かはすぐに正体を現した。それは黒いジェット機だった。 しかし、大きさは3メートルあまり、胴体の下には人間の両腕が付 いている。 ジェット機は急降下で、美佳たちのところに向かってきた。 美佳たちが数歩、後ろへ下がる。 ジェット機は地面激突2メートルのところでカイルを黒い両腕で つかみ上げると、一気に急上昇した。 「逃がすか!」 ペトラルカが青銅銃を発砲した。 しかし、ジェット機はすぐに空の彼方に消えてしまった。 「何、今の?」 美佳がソフィーを見た。 「さあね、新しいおもちゃじゃないの」 ソフィーは意味ありげに微笑んだ。 9 事件後 カイルと美佳たちとの対決から5時間後、エリナは水沢邸の喜久 子の部屋で目を覚ました。 エリナの寝るベッドのそばでは、美佳が椅子に座って看病してい た。 「よかった、目が覚めて」 美佳がほっと胸をなで下ろす。 「ここは?」 「喜久子さんの部屋よ」 「あの、美佳さん−−」 エリナが何か言いかけた。 「エリナを襲った連中はおっぱらったわ」 「助けに来てくれたんですか」 「みんながね」 「みんな?」 「ペトラルカとソフィーよ」 「ペトラルカとソフィーがいるんですか」 「ええ」 「ぜひ、会わせて下さい」 エリナが起き上がった。 「落ちつきなさいよ、後で会わせるから」 美佳はエリナを寝かせた。 「水沢さんは?」 「残念だけど、死んだわ」 美佳は静かに言った。 「そうですか……」 エリナは天井を見つめた。 「喜久子さんはどうしてますか」 「ショックは大きいようだけど、何とか大丈夫みたいよ」 「警察にはどう話したんですか」 「強盗に襲われたことになってるわ。後でナオちゃんがエリナに話 を聞きに来るから、うまく頼むわね」 「はい」 「わたくし、どうなるんでしょうか」 エリナが美佳の方を見た。 「どうなるって?」 「美佳さんのところに戻れるんでしょうか」 「もう強く反対する人はいないと思うけど、喜久子さんとはよく話 し合ってくれる?」 「わかりました」 その時、ドアがノックされ、牧田奈緒美が入ってきた。 「どうやら意識が戻ったみたいね。事情聴取をさせてもらっていい かしら」 「はい」 エリナが答えた。 「じゃあ、エリナ、私は一度、うちへ帰るから」 「気をつけて」 美佳はドアを出る時に奈緒美と軽く会話を交わして、部屋を出て いった。 10 喜久子との会話 その夜、エリナは部屋で喜久子と話し合った。 「これで椎野さんのところに戻れるね」 喜久子は言った。 「ごめんなさい……」 エリナはベッドに寝たまま、謝った。 「どうして謝るの?」 「お父さんが亡くなってただでさえ辛いのに……」 「ふふふ」 喜久子は押し殺すように笑った。 「どうしたんですの?」 エリナは不思議そうな目で喜久子を見る。 「私はお父さんが死んだこと、ショックじゃないわ。むしろせいせ いしてる」 「喜久子さん……」 「お姉ちゃんの日記、読んだんでしょ」 「ええ」 「私もお姉ちゃんと同じ目に遭わされたのよ。お姉ちゃんがいなく なってからね」 「同じ目?」 「そう、これまでも塾とか勉強とか厳しかったけど、お姉ちゃんが いたおかげで、私の方は監視が厳しくなかったわ。でも、お姉ちゃ んがいなくなってからは、私の方にお鉢が回ってきた。毎日毎日、 お姉ちゃんのかわりに頑張れって言われてね。もう飽き飽きしてた わ。私がお姉ちゃんを捜すのに真剣だったのは、早くこの監視から 逃れたかったからなの」 「……」 「あの日記、私がお姉ちゃんに読んでもらうために机の後ろに隠し たのよ」 「え?」 「3年半前、お姉ちゃんがいなくなった時、私、お姉ちゃんの日記 を自分の部屋に隠したの。お父さんに見つからないように」 「どうして?」 「決まってるじゃない。あの日記を読んだら、お姉ちゃんを見捨て て、私の方に目をかけるでしょ」 「喜久子さんもお父さんのこと、嫌いだったんですね」 「お父さんだけじゃないわ、お母さんもよ。お母さんはお姉ちゃん が失踪して以来、お姉ちゃんを心配する以前に世間体を気にしすぎ て病気になっちゃったんだから」 喜久子は笑った。しかし、その笑いはかわいていた。 「これからどうするんですか」 「適当にやるわ。もう受験のことをガミガミ言う人もいないしね」 「わたくしのこと、小夜子さんではないと信じてくれるんですか」 「私にはわからないわ。でも、お姉ちゃんがそう言うんなら、私は それでいいよ。今のお姉ちゃん、幸せそうだから」 「喜久子さん…」 「椎野さんっていい人ね。お姉ちゃんが気を失ってる間、ずっと看 病してたのよ。すっごく羨ましかった」 喜久子の表情は父親が死んだと言うのに、それほど悲しみの色は なかった。本人の言うように、喜久子も父親のことを恨んでいたの かもしれない。 エリナは自分の肉親よりも自分の方が早く死んだので、両親を失 った時の気持ちはわからなかった。 「喜久子さん、一つ聞いていいですか」 「何?」 「小夜子さんが失踪した晩、小夜子さんは喜久子さんに『人に会い に行く』と告げて、家を出たそうですね」 「そうだったかしら」 「警察の調書にはそう書いてあったそうですわ」 「だったら、そうかも」 「覚えていないんですか」 「3年以上も前の話よ。覚えてないわ」 「でも、お姉さんがいなくなった晩のことでしょう」 「そんなこと言われても、失踪したのはお姉ちゃんなのよ。私より お姉ちゃんの方が詳しいんじゃない」 「わたくしには小夜子さんの記憶は全くありません」 「本当にお姉ちゃんじゃないの?記憶喪失とかじゃなくて?」 「記憶喪失ならこんなにはっきりものは言いませんわ」 「そりゃあ、確かに言葉遣いや雰囲気は違うけどね」 喜久子は少々戸惑い気味であった。 「わたくしの記憶から言わせてもらえれば、わたくしが小夜子さん の体と同化した時、わたくしは南雲山の崖下の河原に倒れていまし たわ」 「南雲山……」 喜久子の細い眉がぴくっと動いた。 「わたくしの当時の様子からしても、小夜子さんは崖から落ちて、 その時に頭を打ち、亡くなったものと思います」 「亡くなったってお姉ちゃんは生きてるじゃない」 「わたくしはエリナですわ」 「あっそう」 喜久子は今一つついていけなかった。 「わたくし、思うんですけど、小夜子さんは誰かと一緒に南雲山へ 行ったのではないでしょうか?」 「何のために?」 「駆け落ちか、心中か。喜久子さん、小夜子さんのつきあっていた 人で誰か心当たりはありませんか?」 「私はわからないわ。お姉ちゃんとは普段でもあまり顔を合わすこ とがなかったから。本当のところ、こうやってお姉ちゃんと長く話 したことも今まであまりなかったの」 「その割には、自然じゃないですか」 「それが不思議なのよね。以前のお姉ちゃんは何となく殻に閉じこ もるところがあって、話しづらかったのに」 「喜久子さんが今みたい小夜子さんに接していれば、小夜子さんは 家を出なかったかもしれませんね」 「私がいけないって言うの?」 喜久子はムッとした顔をした。 「いえ、気を悪くしたらごめんなさい」 エリナは喜久子の顔色を伺いながら、言った。 「別に怒ってはいないよ。ただ今の言葉をお姉ちゃんが言うと、例 え心はエリナさんだって、小夜子お姉ちゃんが言ってるみたいでし ょ」 「あっ、そうですね」 エリナはクスッと笑った。 「私、黙ってようと思ってたけど、やっぱり言うわ」 「何をですか?」 「これはお姉ちゃんの心がエリナさんだと信じて言うのよ」 「信じてもらっていいですわ」 「実は、さっき、お姉ちゃんには恋人はいないって言ったけど、本 当はいるの」 「本当ですか」 「ええ。その人は森沢信宏と言って、お姉ちゃんが予備校で知り合 った恋人だったわ。でも、今は私の恋人なの」 「え?」 「エリナさんの言うように、お姉ちゃんが家を出た晩、信宏はお姉 ちゃんと一緒に駆け落ちするはずだったの。お姉ちゃんに懇願され てね。けど、信宏はお姉ちゃんとの待ち合わせ場所に行かなかった の。これは本当よ。調べればわかるし−−」 「では、小夜子さんは信宏さんに裏切られ、絶望して、南雲山に− −」 「それはわからないけど、そのことを当時、警察に話してれば、お 姉ちゃんは助けられたかもしれない。でも、私も信宏も黙ってたの ?」 「どうして?」 「その当時、もう私と信宏はつきあってたから」 「当時って、小学6年生だったんじゃないですか、喜久子さんは? 」 「小学生でも恋愛は出来るわ。信宏だって中学生だったし」 「これで何となく真相が分かりましたわ」 「お姉ちゃん、恨んでるだろうね」 喜久子はエリナを見る。 「その事実を知ればきっと−−ね」 「私、どうしたらいいのかな」 「そんなこと、わたくしに聞いていいんですか」 「だって−−心はエリナさんでも、体はお姉ちゃんだもん」 「それならなおさら聞かない方がいいですわ。わたくしがお姉さん の立場なら、何を言うかわかりませんから」 とエリナはニコッと笑って、言った。 11 酒場 その晩、美佳とペトラルカは駅前のパブで話をしていた。 美佳は酒が飲めないので、レモンスカッシュを飲んでいた。ペト ラルカの方は、ウイスキーの水割りである。 二人はカウンターで話していた。 「−−本当はソフィーとも話がしたかったのにな」 美佳は残念そうに言った。 ソフィーは水沢邸の現場検証のどさくさでいなくなってしまった のである。 「あいつはいつもそうなんだから、仕方ないわよ」 ペトラルカは水割りを飲んでから、言った。 「どういうこと?」 「昔から、ふっと現れたと思ったら、いつのまにかいなくなってる 。それでいて、いつもいいところを持っていくのよね」 「ソフィーはどうしてエリナがあそこにいたこと、知ってたのかし ら?」 「ソフィーはカイルの後をつけてたんじゃないの」 「なるほど。それで私たちより駆けつけるのが早かったわけか」 「多分ね」 「ところで、あの銀髪の、カイルって男、いったい、何者なの?」 「知らないわ」 「知らないって、じゃあ、何で名前知ってるの?」 「名乗ったのよ。私を襲った時にね」 「それじゃあ、ペトラルカも襲われたの?」 「ええ。私は、人間になってからはボストンの雑誌社で記者をやっ てたのよ」 「へえ、まともな職についてたんだ」 「私がまともな仕事に就けないとでも思ったの?」 ペトラルカがちょっとムッとする。 「いや、そういうわけじゃないけど−−」 「これでも、400年もファレイヌだったから、人並み以上の経験 を雑誌社に話したら、その日のうちに採用されたのよ」 「長生きはするもんだね」 美佳は苦笑して、言う。 「年寄りみたいに言わないで。肉体の方はまだ20代なんだから」 「それでいつカイルに襲われたの?」 「ちょうど一月ぐらい前、ローゼから突然電話がかかってきたのよ 。見知らぬ連中に付け狙われてるから助けて欲しいってね」 「ローゼって誰?」 「あんたは会ったことがなかったわね、ローゼ・フランソワ。元ニ ッケルのファレイヌだったのよ。魔界語でグマルーファという水の 魔法を使うことが出来たわ」 「彼女はゼーテースによってメルクリッサの壷に閉じこめられてた んだけど、ミレーユの死で壷から解放され、私と同じようにバフォ メットの死と共に人間に転生したみたいね」 「お互い姿形が変わってるのによく知り合えたわね」 「ちょっとした能力があるのよ。私たちファレイヌだった者だけが 使えるテレパシーのようなものが。彼女と知り合ったのは1年ぐら い前、街で偶然だったわ」 「ふうん、羨ましいなぁ」 「あんたにだって、テレパシー能力はあるでしょ」 「私のテレパシーじゃ、ペトラルカたちのテレパシーは受信できな いもの」 「あら、そうなの−−って。ちょっと話がそれちゃったじゃないの 」 「ごめん」 「とにかく、ローゼからの電話で私は彼女のアパートへ行ったの。 そうしたら、彼女は既に殺され、ファレイヌも奪われていたのよ。 そして、手がかりのないまま、自宅のアパートに戻ってみると、あ のカイルと二人の部下が待っていたと言うわけ。でも、その時は、 私もあらかじめ危険を察知してたから、何とか逃げることが出来た けどね」 「ブリジッタも殺られたの?」 「唐突に何を言うのよ」 「カイルを前にした時、ブリジッタの名前を出してたじゃない」 「ああ、そうね、彼女とは8カ月前に雑誌の取材旅行でノルウェー の港町に行った時に出会ったのよ。彼女は元鉄のファレイヌで、仲 間の中では一番仲が良かったわ。だから、人間として再び巡り会え た時には本当に嬉しかった。もう対立する必要はないんですものね 」 ペトラルカはそこで一度言葉を切った。「−−だから、カイルが 私の部屋に現れた時、自分の危険と同時に彼女の危険も感じたわ。 カイルが私の部屋を調べたとしたら、必ずあの街へ行くものね。私 は、すぐに彼女に危険を知らせようとノルウェーに行ったわ。けど 、一足違いで殺されてしまった、二人の子供と一緒にね」 「子供がいたの……」 「彼女は人間に転生してから、長年の夢だった結婚を果たして、夫 と子供二人で幸せな生活を送っていたのよ、それなのに……」 ペトラルカはグラスの酒を一気に飲み干した。そして、大きく息 をつく。 「……」 美佳はペトラルカにどう声をかけていいのかわからなかった。 「あんたは私たちのこと、当然の報いだと思ってるんでしょう」 ペトラルカは突然、据わった目で美佳の方を見た。 「わ、私はそんなこと、思ってないよ」 「どうだか。確かに私たちはファレイヌの時には何人もの人間を殺 してきたわ。けどね、別に好き好んで殺してきたわけじゃないのよ 、わかる?」 ペトラルカは急に酔いが回ったようだ。案外、酒に弱いのかもし れない。 「……」 「私たちはね、人間になりたかったのよ。普通に暮らしたかった。 ただそれだけなの。マスター、おかわり。今度はストレートよ」 「ペトラルカ、ストレートはやめなよ」 「うるさぁい!!私が酒、飲んじゃいけないの?」 「そうは言ってないけど−−」 「だったら、黙ってろっての」 ペトラルカはマスターからウイスキーの入ったグラスを受け取る と、また飲みだした。 「まいったなぁ……」 「何、ぐだぐた言ってんのよ、今日は飲むわよ、思いっきり」 ペトラルカはどんと美佳の背中を叩いた。 美佳はペトラルカの変貌ぶりにすっかり辟易してしまった。 エピローグ それから1週間が過ぎた。 この1週間というものは目まぐるしい1週間であった。警察の捜 査とさらにはそれに群がるマスコミ、そして水沢の葬式、通夜など で水沢家には始終、人の出入りがあり、喜久子やエリナはその対応 に休む間もなく追われた。また、入院中の喜久子の母親は夫の死と 失踪した娘との体面という二重の衝撃に出くわして、水沢の葬式に も出席できないほど衰弱し、現在でも入院している。また、ソフィ ーに殺されたカイルの部下ルースとケビンは死体が完全に丸焦げと なって、判別できないため、警察では現在でも身元をつかんでいな い。この二人がなぜ水沢邸に押し入り、なおかつなぜこのような焼 死体になったのかは警察でもわからず、その追求の矛先は事件の目 撃者たるエリナに向けられた。しかし、彼女の証言は外国人の強盗 が突然部屋に進入し、自分を助けようとした水沢が殺され、犯人は 自然発火で焼死したという理解に苦しむもので、警察としてもエリ ナに疑いの目を向けたが、室内に発火物がまるでないことから、捜 査は困難を究めている。 さて、この日はエリナが美佳のアパートへ戻る日であった。 水沢邸の前には美佳とエリナ、喜久子、そして森沢がいた。 「とうとうお別れだね」 喜久子は寂しそうな表情で言った。 「ごめんなさい。本当はもう少しいたかったんですけど、美佳さん はわたくしがいないと何もできないものですから」 「ちょっと、私を子供みたいに言わないでよ、全く」 美佳はふくれた。 「ううん、気にしてないよ。忙しい1週間だったけど、私はお姉ち ゃんと一緒に暮らせて楽しかった。半日ほとんど一緒に動いてたも のね」 「そうですね」 「私さ、お姉ちゃんのこと、わからなくなっちゃった。心はエリナ さんなんだってわかっていても、こうして一緒にいると家族と変わ らないんだもん。私、椎野さんに宣戦布告しちゃおうかな」 「宣戦布告?」 美佳が不思議な顔をして、問い返す。 「そう、お姉ちゃん−−じゃなかった、エリナさんの恋人に立候補 しようかなってこと」 「恋人ってね、私とエリナはそんな危ない関係じゃないわよ」 「じゃあ、どんな関係なんですか」 「そうねぇ−−家族かな」 「ずるぅぃ、それじゃあ、私と同じじゃないですか。でも、それだ ったら、私がエリナさんを取っても文句ないですね」 「お隣の彼はどうすんの?」 美佳が森沢を見て、言った。 「うーん、どうしようかな」 喜久子が考え込む。 「おいおい」 森沢が心配顔になった。 「冗談よ、冗談」 喜久子が笑顔で言った。「でも、これで最後ってことはないよね 」 「このまま放ってはおけませんでしょう。喜久子さんもお母さんが 入院して、一人で大変でしょうし、週に一度は伺いますわ」 「え、ほんと、嬉しいな」 「一応、喜久子さんのお姉さんですからね」 エリナがニコッと笑って、言った。 「エリナ、そろそろ時間みたいだよ」 美佳が腕時計を見て、急かした。 「それじゃあ、喜久子さん」 「お姉ちゃん、元気でね。電話とか頂戴ね」 「はい」 エリナが返事をする。 「喜久子さん、さようなら」 エリナと美佳は挨拶して、その場を立ち去ろうとした。 「小夜子−−」 その時、今までほとんどしゃべらなかった森沢がエリナに声をか けた。エリナが森沢を見る。 「小夜子、3年半前のおまえとの約束、破ってごめん」 森沢は頭を下げた。 「……」 「俺、恐かったんだ。おまえに駆け落ちしようって言われた時。今 まで生きるの死ぬのといった決断を迫られたことなんてなかったか ら。確かに当時は喜久子の方が好きだったけど、おまえを裏切ろう という気持ちはなかった。本当は駆け落ちをやめるよう会って説得 したかった。けど、駆け落ちする日の直前の電話で、小夜子は俺に 喜久子と自分、どちらを取るかを言ってきたんだ」 「それ本当なの?」 喜久子が驚き顔で森沢を見る。「お姉ちゃん、私たちのこと、知 ってたの……」 「ああ。あいつは自分を選ぶのなら約束の場所に来てくれと言った 。そして、もし喜久子を選ぶのなら、喜久子のことを大事にしてや って欲しいと……」 「お姉ちゃんがそんなことを……」 喜久子は口を手で覆った。 「小夜子には本当に済まないことをしたと思ってる。君に謝っても 仕方ないのかもしれないけど、でも、俺は小夜子に謝りたいんだ」 「……」 森沢の真剣な口調にエリナは考え込んだ。 「−−もし小夜子さんに詫びる気持ちがあるのでしたら、南雲山へ 行ってあげて下さい。喜久子さんと一緒に。わたくしにはそれしか 言えません」 エリナはそう言うと、小さく頭を下げて、その場を立ち去った。 美佳も黙ったまま、エリナの後をついていく。 「心にもないこと言っちゃって」 水沢邸から数百メートル離れたところで、美佳がエリナに言った 。 「何がですか」 エリナが美佳の方を見る。 「私ならあんな浮気性な奴、ひっぱたいて文句の一つも言ってやる んだけどな」 「それは小夜子さんの役目ですわ」 「エリナは小夜子さんじゃないの」 「わたくしはエリナですわ」 「……まあ、いいわ。それにしても、今回は全然存在感なかったな ぁ、あたし」 「そうですか?」 「そうよ、おいしいところはエリナとソフィーに持ってかれちゃっ たもん」 「そんなにいつも目立ってたら、美佳さんをひっぱたいて文句の一 つも言ってやりたい気になりますわ」 「ああ、言ったわね、私はこれでも世界の救世主なのよ」 「自惚れ屋」 エリナはつんとして言った。 「うっ……」 美佳はむかっとしたが、口喧嘩すると負けてしまうので黙ってい る美佳であった。 「遠い日のエリナ」終わり