理論編 第一章 ゲームとは何か ──ゲームに対する誤解──  ゲームとは何かということを知る前に、一般にゲームというもの がどのように把握されているかを考えてみます。 ──日本では碁、将棋、麻雀、以外のゲームが、すべて子供の遊 びだと思われていて、大の男がお金も賭けずにサイコロをふってゲ ーム盤の上で遊ぶ姿を奇異とみなす生活感情があります。ゲームは 子供のためのもの、子供の遊びであるという先入観(固定観念)の 呪縛から抜け出せないようです──  この文章はゲームやミステリーに関する著作で知られる松田道弘 氏の「ボードゲーム」(筑摩書房刊)中の一節です。まえがきでも 述べた様に最近はファミコンの流行で少しは状況が変わっているの ですが、一般的な「ゲーム観」はこの文章の、特に後半部分に要約 されているといって差し支えないでしょう。つまりそれは「ゲーム は子供のものである」という感覚です。実際に尋ね回ったわけでは ありませんが「ゲームなんて子供のするものだよ。大人はゲームな んかで遊ばないんだ」という考えにうなずく人はきっと多いことで しょう。 しかし、よく考えてみると、これはおかしな感覚なのです。滑稽 だというのではなく、矛盾した感覚なのです。何が矛盾しているの かお分りでしょうか。  冒頭に引用した松田氏の文章の前半にもあるように、我々はれっ きとした「大人向けのゲーム」である囲碁・将棋・麻雀を熟知して います。それなのに、どうして「ゲームは子供のためのもの、子供 の遊びであるという先入観(固定観念)」に囚われなければならな いのでしょうか。ここに矛盾が存在するのです。分りにくい話でし ょうから「ゲーム」という言葉を「本」という言葉に置き換えて説 明します。 当たり前の話ですが「本なんて子供が読むもんだよ」と言う人な どいません。確かに絵本など子供向けの本はいくらでもあります。 が、専門書など大人向けの本もたくさんあるのですから「本は子供 のものだ」などとはとても言えない。事実として誤っている。それ ではゲームも同じことではないでしょうか。 もう一度繰り返します。我々はれっきとした大人向けのゲームで ある囲碁や将棋や麻雀の存在を、常識として、いな常識以前として、 熟知しているはずです。にもかかわらず「『ゲーム』なんて子供が 遊ぶものさ。大人は『ゲーム』なんかで遊ばないんだ」という意見 を肯定する人が多いというのは一体どういうことでしょうか。れっ きとしたゲームである囲碁や将棋などを、実のところはゲームであ るとは思っていないということでしょうか。これは矛盾ではありま すまいか。 この話をある友人にしたところ「『大人はゲームでは遊ばない』 というときの『ゲーム』というのは単純なトランプの遊びやサイコ ロ運だけに頼るスゴロクなんかを指しているんだ」という答えが返 ってきました。恐らくそうなのでしょう。しかしそれはそれで矛盾 した感覚であると言わざるを得ません。そもそも本という言葉は絵 本・漫画本・小説・図鑑その他ありとあらゆる本を指す集合名詞で あるはずです。同様に、ゲームと言えばババ抜きや神経衰弱といっ た簡単なトランプゲームやドラクエ等のファミコンゲームはもちろ ん、囲碁・将棋などもその内に含まれるはずです。当たり前を言い ますが、囲碁や麻雀は正真正銘のゲームです。手持ちの「麻雀入門」 (栗原安行著・日東書院刊)には「麻雀は牌を組み合わせ、役をつ くってアガることを競うゲームです」とちゃんと書いてあります。 麻雀はゲームなのです。だからゲームという(囲碁・将棋などもそ の中に含んだ)集合名詞を「単純なトランプの遊びやサイコロ運だ けに頼るスゴロク」という意味に限定してしまうのはおかしなこと ではありませんか。もし、それらトランプゲームやスゴロクなどを 指して「大人がするものではない」と言うつもりなら「『ゲーム』 はもちろん大人のものでもあるけれども『単純なトランプの遊びや サイコロ運だけに頼るスゴロクなどのゲーム』は子供がするものだ」 という表現にすべきでしょう。どこまで行っても「ゲームは子供の ものだ」という言い方は、麻雀や囲碁などという大人向けのゲーム が存在している限り、事実として間違っています。にもかかわらず 「ゲームなんか子供がするもんだ。大人はゲームでは遊ばないんだ」 というセリフに「まさか!」または「何をおかしなことを言ってい るんだ」と正常に反応する人がどれだけいるでしょうか。そうはい ないでしょう。だとしたら、これは矛盾だと言わざるを得ません。 そしてこういう矛盾が起きているということは、とりもなおさずほ とんどの人がゲームというものを正しく理解していないということ ではないでしょうか。 ──ゲームは遊びではない──  前のところで多くの人がゲームを誤解しているという余り気付か れていない事実を述べました。ここではそれをより具体的に述べま す。  さて、麻雀などという大人向けのゲームが立派に存在しているに もかかわらず、同時に「ゲームは子供のもの」と考えている人が非 常に多いというのは考えてみれば奇妙なことです。なぜそうなって しまうのでしょうか。結論から言えば、それは多くの人、否ほとん どの人が「ゲーム=遊び」だと思っていることに原因があるのです。 「ゲームとは何ですか」と尋ねればほとんどの人が「それは遊び です」と答えるでしょう。その証拠に「ボードゲーム」という言葉 は「盤上遊戯」と訳されています。大方の人がゲームを「遊び」ま たは「遊びの一種」と考えているに違いありません。しかしこの考 えは誤っているのです。ゲームは遊びではないのです。かつまた遊 びの一種でもありません。確かにゲームの中には遊びと言えるもの が数多く存在します。だから「ゲーム=遊び」と考えてしまうのも 無理からぬことなのでしょうが、しかしゲームの本質と呼ぶべき、 ゲームの核ともいうべき要素は実は遊びとは無縁なものであり、し たがってゲームを遊びと関係づけて考えるのは意味の無いことなの です。 それではゲームとは一体何なのでしょうか。ゲームの本質とは何 なのでしょうか。説明を後に回して結論を言ってしまいましょう。 ゲームとは「競技」なのです。日本語の競技という言葉こそ、実は ゲームの本質なのです(したがって「ボードゲーム」という言葉は 「盤上遊戯」ではなく「盤上競技」と訳されるべきだといえましょ う)。競技という言葉を平たく説明すると「ある規則に従って勝ち 負けを競うもの」ということになりましょうか。つまりはこれこそ ゲームの正体であると私は言いたいのです。オセロゲームにはオセ ロゲームの、将棋には将棋の、ババ抜きにはババ抜きの規則があり、 その規則の下で勝ち負けを競うのがこれらゲームの本質です。遊び ではなく「一定の規則の下で勝ち負けを競う」という競技的性格こ そ、これらゲームの本質なのです。 確かにオセロゲームにも将棋にもババ抜きにも遊びという要素は あるでしょう。しかしそれはあくまで側面でしかない。本質ではな い。なぜなら例えばプロ棋士がタイトルを懸けて真剣に将棋を指し ている時に、いったい誰が「その二人のプロ棋士は『遊んでいる』」 というふうに思うでしょうか。しかしプロ棋士が将棋という「ゲー ム」をしていることは確かな事実(将棋はゲームです! 念のため に)なのです。もしゲームの本質が遊びであるならば、どんな状況 下であっても遊びの要素は残っているはずです。しかし今の例のよ うな場合においては誰も遊びの要素など感じ得ないでしょう。これ はつまり遊びがゲームの本質とは関係の無いことを示しているので す。しかし逆に、たとえ子供がババ抜きをして「遊んで」いても、 家族だんらんでモノポリー(ボードゲームの一種)に興じていても 「規則に従って勝ち負けを競う」という競技の性格はそれらゲーム の内に容易に見出すことができます。 すなわち、ゲームの本質とは競技なのです。「ゲーム=競技」な のです。しかしそれを「ゲーム=遊び」と取り違えてしまっている 人の何と多いことか。わざと触れませんでしたが、私が前のところ で麻雀を「正真正銘のゲーム」だと言って引き合いに出した時、恐 らく「麻雀や囲碁はゲームといえばゲームだがそれよりも『勝負事』 と考えるべきじゃないか」というふうにゲームと勝負事とを心の中 で区別した方が少なからずいらっしゃったのではないでしょうか。 こういう誤解もつまりはゲームの本質を競技ではなく遊びだと考え ているから起こるのです。 ババ抜きなどのやさしいゲームは大して頭を働かせる訳でもあり ませんし(無論、大して頭を使わなくともババ抜きが競技であるこ とには変わりありませんが)、まあ遊びと言ってしまっていいでし ょう。しかし囲碁や将棋などのゲームは定石を覚えるにも苦労しま すし、実戦となれば頭をとことん使います。遊びとはとても思えな い。このように同じゲームであっても遊びと言えるものも言えない ものも両方あるのです(それは「ゲーム=遊び」ではなく「ゲーム =競技」だからです)。にもかかわらず大抵の人は「ゲーム=遊び」 というずれた解釈をしているので、麻雀・囲碁など遊びの要素をそ れほど持たないものをはっきりと「ゲームである」と認識できない のです。だからこそ本来囲碁や将棋など大人向けのゲームも含んで いる集合名詞であるはずの「ゲーム」という単語を「単純なトラン プの遊びやサイコロ運だけに頼るスゴロク」という狭い意味に、競 技の中でもとりわけ遊びの雰囲気が濃厚なもののみに限定して把握 してしまい、その結果「囲碁はゲームというよりも勝負事と考える べきではないか」などと思ってしまう。その勝負事(厳密にいえば 競技)こそが即ちゲームであるのだということに気付かないのです。 前のところで述べた矛盾、囲碁・将棋などというれっきとした大 人向けのゲームの存在を知っていながら同時に「ゲームは子供のも の」と公言してはばからないという矛盾もこのためであると考えら れます。もし囲碁・将棋・麻雀等を完全に「ゲームである」と把握 しているならば「ゲームなんて子供がするものだ」などというセリ フは思いつくはずもありません。それがそうならないのは「ゲーム =遊び」という間違った常識の為に、遊びの要素が少く考えること の多い囲碁・将棋などをはっきり「ゲームである」と捉えられない が為に他なりません。何度も言いますが、これは矛盾なのです。そ してその原因はゲームの本質を「競技」ではなく「遊び」だとずれ て解釈していることにあるのです。 ──ゲームとは「競技」である(補足説明)──  ゲーム=競技というのは分ってしまえば当たり前の事ですが、何 せ「ゲーム=遊び」と頑強に信じている人が多いだけに繰り返し説 明を加えた方が親切でしょう。  なぜゲーム=遊びではなくゲーム=競技であるかといえば、だい たいどんなゲームでも恐ろしく真剣に「勝つ」ことを考えれば、大 抵遊びの要素など吹っ飛んでしまうと考えられるからです。こんな あっけない要素をゲームの本質であると認めるわけにはいきません。 オセロゲームは家庭などで遊びの為に用いられる。「ゲーム=遊 び」じゃないかと考えたくなりますがちょっと待って下さい。オセ ロゲームにも世界大会があるのを御存知ですか。オセロの世界チャ ンピオンを決定するその大会において、はたして遊びなどという要 素が存在するでしょうか。それよりも真剣勝負という形容の方がず っと似つかわしいでしょう(なぜ世界大会において遊びの要素が消 し飛んでしまうかといえばそれはつまり家庭でオセロをする時より もはるかに強く勝つことを意識し緊張するからです)。ということ はもし「ゲーム=遊び」であるならば、家庭におけるオセロゲーム は確かにゲームであると解釈できるけれども、世界大会におけるオ セロゲームはゲームではないことになってしまう(遊びの要素が消 し飛んでしまっているから)。このように同じことをしていても競 技者の心理状態によってゲームになったりならなかったりというの はおかしなことではありませんか。だからゲーム=遊びという解釈 は間違っているのだ、と言っているのです。 一方ゲーム=競技、という解釈ならこういうおかしなことにはな りません。世界大会における緊張した真剣勝負においてオセロゲー ムが「オセロという競技」であるのは言うまでもありません。また 遊びの雰囲気が濃厚な家庭でのオセロゲームにおいても、やはりそ れは「オセロという競技」に他ならない。競技というのは前にも述 べたように「ある規則の下で勝ち負けを競う」ものです。オセロゲ ームは、石を挟んで自分の色にひっくり返すという規則のもとに、 どちらが多く自分の石で盤面を埋められるかを争う競技であるとい えます。競技の持つこの根本的な性格は世界大会であろうと家庭内 であろうと変わりません。真剣勝負であろうとなかろうと変わりな いのです。他方遊びという要素はそれが真剣勝負になった途端にど こかに消え失せてしまう。いったい「遊び」と「競技」と、どちら がゲームの本質であるか、もう明らかでしょう。 ──「ゲーム=競技」のまとめ── ゲーム=競技であるにもかかわらず、ゲーム=遊びという感覚の 故に、どうも競技(ゲーム)の中でもとりわけ遊びの色彩が強いも の──トランプゲーム・コンピューターゲームなど──のみがゲー ムであると考えられているようです。しかし本当は遊びに関係なく 競技でありさえすればそれはそのままゲームといえるのです。例え ば実際のプロ野球、百三十試合を二リーグ六球団ずつが競うという プロ野球もゲームなのです。野球のことを「ゲーム」と書くとファ ミコンの「野球ゲーム」を思い浮かべてしまいそうですが(もちろ んファミコンの野球ゲームも当然ゲームだといえますが)そればか りでなく本物の野球もゲームなのです。とにかく「ゲーム=競技」 なのですから大抵のスポーツはゲームだといえます。ボーリング然 り、テニス然り、サッカーも無論そうです。国技である相撲も一定 の規則のもと勝ち負けを競っているのだから、ゲームであると言え ます。少し前に流行したビリヤードも競技だからつまりはゲームで もあります。 ところであなたはこれらのスポーツその他をゲームと呼ぶことに 抵抗を感じませんか。何か変な心持ちがするのではないでしょうか。 もしそうであるならそれはまだあなたの心のどこかで「ゲーム=遊 び」という解釈が残っているということに他ならない。その間違っ た解釈を即刻捨てて下さい。プロ野球は競技である──これなら変 ではありませんね。テニスも同様に競技であり、ボーリングも相撲 も競技の一種である──これなら誰もおかしいとは思わないでしょ う。その「競技」こそが「ゲーム」なのです。この二つの言葉の意 味は完全に一致します。ゲームを遊びだと思わずに競技という言葉 そのものだと思って下さい。真剣勝負であれ遊びであれ競技は競技 です。ゆえに子供のトランプ遊びも大人のプロ野球もどちらも競技 であり、ゲームなのです。 このことは分ってしまえば当たり前のことなのですが、私の見た ところどうもトランプもプロ野球も同じくゲームであり競技である と言うと拒否反応を起こす人が多いようです。常識ではゲームとい うとすぐ遊びという言葉が連想され、一方競技というと一種厳しい 響きがあり、真剣勝負などという言葉が連想される。ゆえにゲーム というとトランプにはふさわしくともプロ野球には何かそぐわない 気がする。逆に競技というとプロ野球には似つかわしくともトラン プゲームとは相容れないものじゃないかと思ってしまう。競技の本 質を見抜かずに、真剣勝負であるか遊びであるかでゲームと競技と を区別してしまう人が多いのです。しかし何度も強調しますがそん なおかしな理屈はありません。もしそうならトランプを仮に遊びで はなく「真剣に戦ったら」ゲームではなくなってしまうのか。野球 を真剣に戦わずに「遊び」まじりで行えば(草野球ではよくあるこ とです)競技ではなくなってしまうのか。そんなことはないでしょ う。 「ゲーム」と「競技」とは同じ意味を持つ言葉なのです。そして その本質は「真剣勝負」や「男の闘い」でもなければ「遊び」でも 「娯楽」でもない。ゲーム(競技)の本質とは「ある規則に従って 勝敗を競う」ということに尽きるのであって、それが真剣に行われ ようと遊びまじりで行われようとこれは変わらないのです。とにか く「ゲーム=遊び」ではなく「ゲーム=競技」であるということを 私は強調したい。つまりは子供のするババ抜きも、プロ棋士による 真剣勝負も、オリンピックでの熾烈なメダル争いも、勝利に対する 意気込みこそ違いますが、その根底を流れるのは「規則に従って勝 敗を競う」という競技の本質であり、よってババ抜きも名人戦もオ リンピック競技も同じ「ゲーム(競技)」という仲間なのだという ことです。百歩譲って「ゲーム」という言葉を「競技の中でも単純 かつ遊びの要素の濃いもの」という意味に限定して使うことを認め ても、その「ゲーム」は単に呼び方が違うだけでつまりは「競技」 の仲間なのだということ、即ち「ゲーム=遊び」ではなく「ゲーム =競技」であるのだということは認められなければならないという のが私の主張です(当然ボードゲームに対する「盤上遊戯」という 誤訳も「盤上競技」と改められなければなりますまい)。